隣国どうし切れそうで切れないのがヨーロッパの歴史
まずは現代史をここベルリンから辿って行ってみませんか?!
★ベルリン観光ハイライト★
ベルリンの壁
人類史初の大快挙! ベルリンの壁の崩壊は有史以来の偉大な無血革命だったのです。
あの凄過ぎた、「ベルリンの壁の崩壊の大歓喜」を何としても、日本人の皆様にお伝えしたく、ドイツ人の映画監督と共同でドキュメンタリー映画を作成、東京都国立市様、早稲田大学様、大阪大学様、文教大学様、広島市立大学様、慶應大学様、創価大学様、横浜都築区基督教会様にて上映させていただきました!
(ベルリンの壁がブランデンブルグ門の西側に作られていた。写真は後藤が1985年に西側から撮ったもの)
ベルリンで現在も見学することのできるベルリンの壁は、以下の場所に展示されています。
トポグラフィー・デス テロス
こんなに薄いベルリンの壁。ベルリンの壁には、3つのカテゴリーがありました。そのうちの1つです。市内にいくつか壁は残されており、異なった角度からの展示が見学者の興味を、引き起こしていきます。なぜ、ベルリンに壁が作られてしまったのか?もとを正すとドイツが第二次世界大戦を引き起こした、それが大きな要因になっています。あるドイツ人歴史家が語っていました。1989年11月9日事実上の壁の崩壊を持って、第二次世界大戦は終ったと。
トポグラフィー・デス テロス
ナチ政権下、秘密警察の本部があったところに、偶然ベルリンの壁ができたのです。
写真は、ベルリンの壁と抱き合わせで、「戦争へ突っ走って行ったテロ行為/ホロコーストへの道」を時代を追って写真と解説で展示したものです。写真の人々はそれに釘付けになって、真剣に見学しているところです。
ベルナウアー通りの壁跡と記念館
ベルナウアー通りに存在したベルリンの壁とその説明はここをクリック
壁が構築されたとき、西側へ亡命しようとした人の住んでた家
イーストサイドギャラリー
壁の崩壊後、東サイドにあった壁に自由の喜びを絵画に描き、それが1.2Km続いているためギャラリーと呼ばれている。
ギャラリーの中でも最も有名な、「同志のキス」旧東独のホネッカー首相 & 旧ソ連邦ブレジネフ書記長
で、主に外国人、西独から東独への公用者。東独の政党の幹部、東独の組合役員などが通過許可をもらう場所として使われていました。
この隣りにある壁の博物館は、亡命者の命に及ぶ亡命時の様々なドキュメントが展示されています。(壁博物館は有料です)
チェックポイント チャーリー
東ドイツの中に陸の孤島として、存在していた西ドイツの西ベルリン。 西独に属していたベルリンに入るのには、 必ず東独の検問所を通らなければならなかったのです。
このチェックポイント チャーリーは、当時3つあった中の1つで、主に外国人、 西独から東独への公用者。東独の政党の幹部、 東独の組合役員などが通過許可をもらう場所として使われていまし た。
この隣りにある壁の博物館は、 亡命者の命に及ぶ亡命時の様々なドキュメントが展示されています 。(壁博物館は有料です)
ベルリンの壁博物館
1961年8月13日のベルリンの壁の構築から、1989年11月9日の事実上の壁の崩壊まで、28年間に及ぶベルリンの壁を巡る歴史が、数々のドキュメントを通し、具に見学できます。
★★ベルリンの壁を重点ポイントとしてご見学いただきましたお客様の声 高橋能子様
ドイツの負の歴史と、それを省みて未来を担う子どもたちには「考えさせる」教育をしていると言う話が印象的でした。また、ぜひお会いしたいです。
戦後のベルリン統治
1945年第二次大戦後、ポツダム会談を経て、ドイツは米・英・ソ連・仏の連合国の元統治されるようになります。ベルリンもまた然りで、4つの国に統治されるようになり、西半分を連合国の中の資本主義諸国であった、米・英・仏の3カ国、東半分をソ連に逃避されるようになりました。
(赤色で塗られた地域が東ベルリンで、旧ソ連の統治。それ以外の色で塗られたのが、西ベルリンで地図の北から、フランス、イギリス、アメリカの統治となっていました。)
ベルリンで一番美しいジェンダルメン広場のドイツ教会
ここに実際の壁はありませんが、プロイセン時代からのドイツの政治の動向が見られます。そこにベルリンの壁もテーマとしてでて来ます。中はビデオと写真で展示してあるので、とっても分かりやすく、ウンターデンンリンデンからでもあるいて5分だけ。
ジェンダルメン広場の南側に建つドイツ教会。見事なクリスマス市が冬シーズンの観光ハイライト。
ポツダム広場
このポツダム広場は、戦前東京で言う、銀座の4丁目に当たるところ。戦後1961年に壁ができた後は、東西の不干渉地として、壁で囲まれ、だだっ広い広場は、ただうさぎが数わ遊んでいただけの、荒れ地と化していました。1990年壁が崩壊するや否や、ソニー広場と呼ばれている建物を、ソニー社が10年の歳月をかけて建設。ポツダム通りを挟んで反対側はデービスと呼ばれ、ベンツ社が7年半かけて建設しました。
崩壊後、一度はがした壁を、記念にもとのところに戻し、観光のアトラクションとしてたてかけてあります。
今世界で一番エキサイティングなブームタウン、ベルリン!!
ユネスコ世界文化遺産 博物館の島
博物館の島には、5つの有名な博物館が建っています。
旧博物館、ペルガモン博物館、旧ナショナルギャラリー、ボーデ博物館、新博物館となります。
圧巻 ユネスコ世界文化遺産 博物館の島 6千年にわたる人類の大交流!!
ベルリン市は、新しいプロジェクトにより、すでに100年以上の歴史を持つこの5つの博物館群からなる博物館の島を、2025年を目指し近代化を進めています。
絶対にまた博物館の島を訪れたくなる!そのわけ. . .6千年の人類の大交流の足跡が!!
★ペルガモン博物館 年間約140万人の訪問者を抱えているその4つの秘密。
・ペルガモン(現在は、トルコのベルガマのゼウスの大祭壇を見ることができる。
・バビロンニア王国の首都バビロンの陶器で埋め尽くされたイシュタール門と行進をした道路の壁面を見ることができる。
・奈良時代に作られたマッシャッタ(現在ヨルダンの荒涼地)の城壁をみることができる。
・ここペルガモン博物館で、アレッポに17世紀に作られた商家の居間が再現されていて、イスラム文化の焼き物と絨毯をみることができる。
★新博物館 世界のあこがれの的、エジプト新王国時代の第18代ファラオの美王妃 絶世の美女ネフェルティティの胸像(制作は今から3400年前)が。。。この胸像のどこに魅力が?
-・古代エジプトの文物の中で最高に賞賛されて来た。
・世界的な美の象徴。長い首、優美な弓なりの眉、高い頬骨、細い鼻梁、そして謎めいた微笑を浮かべる赤い唇。この胸像はネフェルティティが古代でもっとも美しい女性の一人であるという名声をもたらした。
★★博物館の島をご堪能いただきましたお客様の声 長田様
ベルリンの博物館、市内観光たいへんありがとうございました。
とても充実した1日を過ごさせて戴きました。お薦め戴いた連邦議会レストランで の食事はとてもおいしかったです。特にアスパラガスが印象に残りました。
ご主人様には親切な心配り まで戴き恐縮しております。よろしくお伝えください。ありがとうございました。
平和の象徴 ブランデンブルグ門
平和の象徴 ブランデンブルグ門
高さ20mのブランデンブルグ門は欧州に古くから街を壁で囲うという慣習があり、その名残りの一つであり、ベルリンには、いくつか同様の門がありました。街に出入りする際に、税金をとっていた場所でもあります。
ベルリンの壁の崩壊の時の、あの大歓喜の叫び声が今も耳朶に残っている方も多いのではないでしょうか。年間を通し様々な催し物が、ここブランデンブルグの前で開かれます。大晦日もここで大パーティーが催されています。
新👑ベルリン王宮
最新2020年12月16日に再オープンしたベルリン王宮は、ベルリンの新しい観光ハイライトです!
15世紀に建てられた町の城に所以しています。および兵営の目的は、中世以来の都市の特権を手放そうとせず中央集権を進める君主に従おうとしないベルリン市民に、選帝侯の権威を見せ付けるためのものであったとのこと。
1448年頃、選帝侯と対立を深める市民は、ベルリン市城建設現場を襲う事件を起こしたものの、1451年に選帝侯はベルリン市城に入居しました。この城はベルリン市街の対岸にあたる中州の東側、シュプレー川に沿って建つ三階建てで長さ88mもの長い建物であり、川に礼拝堂が突き出しており、市民からは「ケルン威圧城」と呼ばれ嫌われていました。この東翼がベルリン王宮の最初に建てられた棟に当たります。
このような長い歴史を持つベルリンの王宮は、1945年第二次世界大戦が終了した時には、まだ城の形は残っていたのですが、1950年旧の東ドイツ政府が政治思想に合わないと言う理由で爆破し、ベルリンから完全に姿を消しました。
その後ベルリンの壁が崩壊した後、再びドイツバロック様式では類を見ない最高のお城であったと言うことで、お城の外側のみ以前存在した歴史的な王宮を再建。再デヴューを果たしたのが、2020年でした。
この王宮では、ヨーロッパ以外のアジア・アフリカ・南アメリカ・オセアニア等の民族学の展示を見ることができ、道路を挟んで博物館の島と並んで世界の民族学の粋を集めています。フンボルト大学の創始者であるフンボルト兄弟の名にちなみ、フンボルト広場と呼ばれています。
今世界で一番エキサイティングなブームタウン、ベルリン!!
壁の構築から崩壊に至り、さらにヨーロッパと一体化して行くドイツの新首都として、魅力の尽きないベルリンを、ベテランガイドがかゆい所に手の届くサービスで、皆様に忘れがたい出会いをお約束致します。
新王宮がオープンした暁に、2020年当ブログでご紹介しておりますので、よろしかったら合わせてご覧ください。
〜さて、皆様お元気でいらっしゃいますか?
先日ご紹介させて頂きましたベルリン・ブランデンブルグ新国際空港に次ぎ、最新ベルリンの観光ハイライト、ベルリン王宮がオープンしたんです。
こんな世界が混沌として、まるで泥沼にはまったようなご時世に、ベルリンガイドの私としては、一条の光を見るような気持ちです。
そこで、本日のお題は、「最新ベルリン観光の見所👑 ベルリン王宮がオープン」でございます。
この王宮の説明をしたいと思います。
まず、どこにベルリン王宮があるのか
🔍
ベルリンの真中に位置している、ブランデンブルグ門から東へゆっくりウンター・リンデン通りを15分位歩いて行くと、左手にフンボルト大学、ベルリン国立が劇場が右手に見えて参ります。
🚶♂️ 🚶♂️ 🚶♂️
そのまま、まっすぐ道に沿って歩みを進めて参りますと、左手にドイツで一番大きいと言われているキリスト教・新教の教会ベルリン大聖堂が荘厳に建っており、その向かいに建てられたのが、ベルリン王宮です。
(ベルリン新王宮の南側に元としてそびえる、ベルリン大聖堂)
この王宮は、フンボルトフォーラム フンボルト広場と呼ばれています。
ミッテ地区のベルリンの歴史的中心部にある市のお城があったところに、最盛期の姿を立て直しをしたというわけ。。
中は、美術館やイベントルームのプラットフォームになっており、ここで新たな文化を起こしていこうというのが狙いです。
民族学、芸術、文化史のコレクションを備えたフンボルト広場は、道路を隔ててあるのが、既に1999年にユネスコ世界文化遺産に指定された、博物館の島。この博物館の島の拡張として文化交流の場を設けたという経緯が背景にございます。
ドイツバロック建築の粋を集めていたこの旧王宮は、時代の流れにより、
初めは修道院であり、
1443-1918は、ブランデンブルグ地方・ベルリン・プロイセン・ドイツ帝国のレジデンスとして
ベルリンの歴史を支えてきていました。
第二次世界大戦中空爆に会いましたが、修復の余地はあったものの
旧東ドイツの共産党により、1950年に爆破されてしまい、
😱
ベルリンの壁崩壊後、2000年あたりから再建の運動が始まって行きました。
何故、フンボルトフォルムと呼ばれるのか
フンボルト兄弟って聞いたことありますか?
フンボルト兄弟は、ベルリン大学、現フンボルト大学の創始者であり、欧州ではナポレオンの次に有名だと言われるほど名前の通った学術家の兄弟です。兄のヴィルヘルム2歳年下のアレクサンダーは、兄が言語民俗学に長けており、弟は自然科学地理学に秀でていました。アレクサンダーはイタリア、イギリス、アイルランドなど欧州をくまなく旅し、南北アメリカにも多くの探求の足跡を残しております。
教育に関していえば、兄は様々な教育機関と科学コースを一つの屋根の下に統合することを提唱しています。
フンボルトフォーラムは、それ自体をこのアイデアの実装者と見なしており、自然科学と文化科学を組みわせたいと考えています。
2013年から始まった本格的な工事現場に、2度足を運びました。ベルリンの新空港同様、気の遠くなるような息の長い工事期間。。
それだけに、喜びも大きいのでしょう。。
ところで、なんぼかかったん?建築費??
驚くなかれ約800〜900億円‼️
😅
よろしければ、その800億円〜900億円したベルリン王宮をクリックしてご覧くださいね。イメージが湧いてくると思います。。バッハのブランデンブルグ協奏曲が耳に心地よく、まさにプロイセンのど真ん中!
いよいよ明日1日で聖夜を迎えるベルリンです。本年25回のメルマガ「ドイツもこいつも」にお付き合いいただきまして心から感謝申し上げます。ありがとうございました。来年も引き続き、メルマガにて皆様にお会いできますこと、今から楽しみに致しております。
楽しいクリスマス、2021年のお正月をお迎えくださいませ。
Save healthy and very best regards from Berlin
with a lot of love ❤️
後藤裕起子
25回目のメルマガでの再会、嬉しい限りです。
また次回もお立ち寄りいただければ幸甚です。
ありがとうございました!
ベルリン通訳ガイド 後藤裕起子
ベルリン観光ガイドのサイト http://berlin-kankougaido.com/
ベルリン通訳アテンドのサイト http://berlin-tsuyakugaido.com/
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ベルリン絵画館・ゲメルデギャラリー
必須 絵画のお好きな方へ
ドイツの生んだルネッサンス期3代画家 デュラー クラナッハ ホルバインを始め、オランダ/レンブラント レーベンス フェルメール ブリューゲル、イタリア/カラバッジョ、 ラファエロ、ジョット、ボッテチェリ、 フランス/ペッソ、ワットー 等
13C ~18Cまでの3000点の欧州絵画が鑑賞できます。
フェルメール の「紳士とワインを飲む女」の前でワンショット
ベルリン大聖堂
ドイツのキリスト新教の教会の中では、底面積が一番広い、立派な教会です。ここには、選帝候としてこのブランデンブルグ地方にやってきたホーエンツォーレン家の棺が地下に安置されています。この教会でも数多くのコンサートが開催され、パイプオルガンの奏でる曲は大きな教会の空間に広がり、しばし聴衆を遠く来し方へといざなってくれます。
ユネスコ世界文化遺産 「バウハウス」
今も世界中に生き続ける 100年に及ぶ斬心的な教育思想!!
バウハウスは、1919年第一次世界大戦後、ヴァイマール共和国ができたころ、美術学校と工芸学校を合併し、創立された学校です。芸術と工業を統一することで新しい建築や工芸の道を切り開いて行きました。初代校長には建築家ヴァルターグロピウスが就いています。
バウハウスは、まず初めにヴァイマールに建てられたものの、その後政局の関係で、デッサウに移り、最後閉鎖される直前にベルリンに移っています。美術と建築を総合的に統一した、それまでにはなかった革新的な学校でした。ナチ党が第一党となり1933年に閉鎖を余儀なく迫られるまでの、わずか17年の短い間の教育活動でしたが、世界の建築界に与えた影響は多大なものがありました。
グロピウスの提唱する合理主義的、機能主義的な思想は、工業デザインや大量生産をする方向に合致し、以後バウハウスの教育の柱となって行ったのです。このバウハウスの教育に関わった有名な人の中には、ミースファンデアローエ、パウルクレー、ワリシーカンディンスキー、マセルブロイアーなど世界に名高いソウソウたる芸術家、建築家が名を連ねています。
また最盛期には、生徒達は世界から集まってきていました。
バウハウスの教育方針は、その後世界各国に広まり、現在もその水脈は脈々と続いています。ヴァイマールとデッサウのバウハウスは、現在大学として使われている他、教授陣の住宅など付随する建物も見学することができ、ここの建物はユネスコの世界文化遺産に制定されています。
バウハウス閉鎖直前にベルリンへ移り、ベルリンには、現在バウハウスの資料館があり、そこが博物館として見学できます。博物館では工芸品をはじめ具体的な展示を通して、私達にバウハウスの思想のエッセンスを教えてくれます。
ドイツ連邦議会(ドイツの国会)
ベルリンの東西が分断していた時に、西ベルリンは西独の首都ではありませんでした。しかし壁崩壊後、ベルリンが再びドイツの首都に返り咲いたのです。建物の中に入ると、エレベーターで屋上へ行き、屋上からブランデンブルグ門を上空からのポジションで撮影することができます。またコペルというまあるいグラスでできた建物の中に入れます。(上の写真はコペルの中)ドイツの国会の歴史と絶好のシャッターチャンスを狙う方におすすめ。
入場資格はどなたにもありますが、入場前に手続きが必要です。お気軽にお問い合わせ下さい。
シャルロッテンブルグ宮殿
1701年プロシア王国誕生。それ以前はこのブランデンブルグ地方を神聖ローマ帝国の選帝候フリードリッヒ1世が治めていました。同選帝候が王位に格上げされる前、夏の離宮としてお妃のソフィーシャルロッテに造られたのがお城の始まりといわれています。
その後プロシア王国は、6代の王様が続き、3代目のフリードリッヒ2世の時に、左右対称にお城を拡張したため、お城の袖を全部たすと1Kmに及びます。南麺には見事な庭園があります。建物の中には、陶磁器の間があり、往事の日本の伊万里焼きなどもみることができます。
シャルロッテンブルグ宮殿の庭園・バロック庭園と奥にはイングリッシュ庭園があり、陶磁器の博物館もお楽しみ頂けます。
カイザー・ヴィルヘルム記念教会
1890年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がヴィルヘルム1世を偲んで建設。カイザー・ヴィルヘルム旧の教会には、鐘楼には5つの鐘があり、鳴り出した時の音量は当時ドイツ最大であったケルン大聖堂を上回るものであった。
1943年に英国の空襲に遭い、教会は破壊されてしまい、1957年に建物の再復興が開始。しかしすでに1945年戦争で焼け出された西ベルリンの市民達は、このカイザーヴィルヘルム教会から、祈りを捧げ、国土復興へ立ち上がりました。現在では、その破壊されたままの形を残し、戦争への警告として平和のメッセージを発信しています。この記念という言葉は、戦争を忘れてはならぬという意味を含んでいます。
新教会堂最大の特徴の青色のガラス窓。2万以上のガラス窓を組み合わせて制作
フランスのシャトルで、ステンドグラス作家のガブリエル・ロワール氏が、ガラス窓(ステンドグラス)を製作。多彩なガラスが光彩を放ちながら狭い範囲に集められ、コンクリートの枠にはめ込まれている。差し込む光はガラスの断面によって屈折し、研磨された宝石の輝きに近い印象を見る人に与えています。
ホロコースト碑とナチ党が作った強制収容所
2005年戦後60年経過した時点で建設、地下では戦中下ユダヤ人大量虐殺を犯したホロコーストの足跡が見学できます。
オラニエンブルグに戦中下ナチスにより建てられた収容所
孔雀の島・深い森の散策 都会の喧騒を離れ、大自然を満喫
孔雀の島
緑地が面積の1/4,河川湖を含めると全体の面積の1/3は、自然が締めるという欧州の中では最も良い環境に恵まれたベルリン。
渡し船で対岸に渡ると、孔雀の島でのご滞在がお楽しみいただけます。都会の喧騒を離れて、自然をたっぷりご堪能いただき、放ち飼いになっている孔雀とともに過ごしてみませんか?
43Km柄米の大きな森、グルーネヴァルト、狩のお城も見学できます。
★★ベルリンの森とジャズクラブでの生演奏をご体験いた山本様のお声
「後藤 さん 、先日はお世話になりました。早速、写真も送ってくださりありがとうございました。
ドイツの森が大きいということは知っていましたが、実際に来て見ると桁違いの大きさで、まさに「赤ずきんちゃんの世界」です。 市民はベンチで休んだり、ランニングをしたり、犬との散歩を楽しんだり、思い思いの姿でゆったりと時を過ごしています。 そんな森の中を歩いたり、パブでジャズの生演奏を聴いたりできるのは、長期にわたって滞在しているからこそ。 生のドイツの空気を存分に味わっています。」
狩のお城の前で
森の中にある乗馬クラブ
ポツダムは、ベルリンの町から30Km・ポツダム観光は十分ベルリンから日帰り可能です。合わせて観光アレンジ承ります。
★ポツダム観光ハイライト★
ドイツは日本と違って地方分権の長い歴史を持っています。日本国内での旅行とは全く異なった、歴史文化に触れる楽しみは、大きな喜びとなってお客様の口から口へと伝わっていくようです。
1701年には、ここベルリンは神聖ローマ帝国に属しながら、プロイセン(英語ではプロシア)王国の首都になり、その後ドイツ帝国の首都となり発展して参りました。ドイツの特徴は、それぞれの地方が独自性を保ちながら発展して行ったのです。
ベルリンの南西に位置する湖と森に囲まれたポツダム市は、プロシアの代々の王様がこよなく愛した町でした。フリードリヒ大王(2世)が建てたサンスシー宮殿、戦後ポツダム会談の会場、ツェツィリエン宮殿は、ユネスコの世界文化遺産に制定されています。またこのサンスシー宮殿の庭園の階段式に並ぶ温室の規模の大きさと機能性には、目を見張るものがあります。
ユネスコ世界文化遺産
ツェツェリエン宮殿 ドイツカイザー家の末裔と戦争期の歴史の糸が絡み合う歴史、ポツダム会談をズバリ解明!
ツェツェリエン宮殿は、1917年最後のドイツ帝国皇帝の皇太子ヴィルヘルムにより、ポツダム市内に建てられたホーエンツォレルン家最後の宮殿。1945年2月まで家族で住んでいました。
1945年ドイツは第二次戦争に敗け、そのドイツの戦後の処理をするため、同年7月17日から8月2日まで連合国であった、アメリカ・イギリス・ソ連の首相が一堂に集まり、ポツダム会談を開催。ここで戦後ドイツはアメリカ・英国・ソ連の連合国とフランスの4カ国によって統治されることが決定。
世界中からの見学者が絶えない館
ポツダム会談は、ソ連のスターリンが階段の準備をしました。
これが大広間で、円卓の間と呼ばれており、3首脳会談が行われました。
ポツダム会議に集った3巨頭 左からスターリン、トルーマン、チャーチル
ツェツィリア皇太子妃
ドイツ最後の皇帝は第一次世界大戦にドイツが大敗するや否やオランダに亡命し、皇太子ヴィルヘルム氏も一緒にオランダへ亡命したため、7年間この館を離れて、家族とは一緒に住むことがありませんでした。そして、皇太子は1925年ドイツへ帰り、1945年の2月までここで暮らしましたが、同年1945年2月には、連合軍の砲撃が激しくなッたため、ハッキンゲンにあるホーエンツォーレン家の古城に帰りました。
ツェツィリア皇太子妃は、第一次世界大戦の後、皇族・貴族の位を失い、平民となりましたがこの館に住むことが許され、1945年1月までここに住みます。
このポツダム会談を持って、ドイツの第二次世界大戦の政治は全て連合国に支配されるようになります。
この館で起きた歴史は、ドイツの現代の歴史の縦糸と横糸が複雑に絡み合い、見学者を歴史の虜にしてしまいます。また日本にとりましても広島・長崎と投下されてしまった原水爆の背景となった3カ国首脳会談の経緯等、ガイダンスをさせていただいています。
戦後描かれていった世界地図の根源がこのツェツィリエン宮殿に見ることができた!そのようなエキサイティングな歴史をここで紐解いてみませんか?
お客様のお時間に合わせ、隈なく館内のガイダンスを承ります。
サンスーシ宮殿 啓蒙思想家プロイセン王フリードリッヒ2世が建てたロココ様式の宮殿
1701年に建国されたプロイセン王国の3代目の王様、フリードリッヒ2世が1745年から1747年のわずか2年間の短い間に建てた夏の離宮。
サンスーシはフランス語で、憂いがないという意味。プロイセン王国が1701年にできたその後3台目のプロイセンの王様が、フリードリッヒ2世であり、こよなく音楽、文学、絵画を愛し、父親であったフリードリッヒ・ヴィルヘルム1世は軍隊王として有名であったが、フリードリッヒは、戦争を憎み、父親とは全く違う人間性を持っていたようです。
軍隊王は一度も戦争をしなかったにも関わらず、フリードリッヒ2世は戦争を避けることができず、オーストリアのマリア・テレージアとも戦争をいたします。マリア・テレージアに戦争で勝利すると、部下の進言により、このサンスーシ庭園の一角に新宮殿を建てます。
庭園の南側は、斜面が階段状になっており、そこを温室として使用していた。
宮殿内にあるギャラリー
フリードリッヒ大王がもっとも大切にしていたコンサート室 自らはフルートを演奏し、100曲以上のソナタを作曲した。
大理石の間に円卓をおき、ゲストを招いて盛んに討論を行った。フリードリッヒ大王の好んだテーマは、音楽、美術、建築、宇宙、哲学等
フリードリッヒ大王が生前に庭に作った墓。啓蒙思想を説いていた王には、質素な墓で十分であった。
アンディ・ワーホールの描いたフリードリッッヒ2世
マリアテレージアに戦争で勝った後、建てた新宮殿
新宮殿の中の迎賓の間
新宮殿の中の鏡の間
新宮殿の中の洞窟の間
サンスーシ宮殿の庭園
欧州に星の数ほどある宮殿の中では、最も広い宮殿の庭園がここサンスーシパークです。オベリスクから、新宮殿までが2.5Km あり、1日ではとてもこの庭園と建物を見学することは不可能です。
フリードリッヒ2世が1747年に、サンスーシ宮殿を建てた後、お茶の館、絵画館と言われているギャラリー、迎賓館、新宮殿が建てられ、1年までの間に植物園、ローマ風のお風呂、ドラゴン型のアパート、等末代のプロイセン王が増築していきました。
フリードリッヒ2世の建てたお茶の館
絵画ギャラリー・ドイツで一番初めに一般に公開された美術館となる
遠景から見たお茶の館