1. ベルリン&東部ドイツ

・ドレスデン
・ザクセンスイス
・マイセン
・ゲーリッツ
・ライプチッヒ
・ザイフェン
・バウツェン
・ワイマール
・アイゼナッハ

 

ドレスデン

ベルリンからドレスデンまでは、車、または汽車を使用しますと、約2時間半かかります。ベルリンからとっても急げば日帰りも可能です。車を使えば、夏時間で、日が長い時であれば、マイセン・ドレスデンも日帰り可能です。

エルベ川のフローレンス ドレスデン

ベルリンドレスデン間 ラクチンにご移動! 専用車をご用意しております

ドレスデンの見どころ
ドレスデンは エルベ川のフローレンスと呼ばれている、バロックの町。町の持つ優雅さは、すでにプロイセンの首都であったベルリンには見られない、ドイツ独特の地方文化の香りが彷彿し、世界からの観光客を魅了しています。
ドレスデンの芸術的風雅さが、一望できるアウグストス橋。そこからは数百年来、賞賛され、欧州各国の画家達を魅了し続けた、ドレスデン特有の、「カナレットー ブリック」をご覧頂けます。橋の上からは、右手にゼンパオペラ劇場、劇場広場、その奥にツインガー宮殿、宮庭教会、そこから左手にブリュールシェ、テラス、聖母教会、芸術大学、アルベルティーヌムと続いていきます。このパノラマにはドレスデンの歴史建造物が絵巻物を見る様に眼前に広がって行きます。素晴らしいフォトの被写体になることでしょう。
★ツヴィンガー宮殿

 

ツヴィンガーというドイツ語は、本来、中世の城の外壁と内壁の間の空き地を示すことば。ここに外堀があり、レジデンスを守っていたんです。初めここには、若い頃建築学を学んでいた、アウグスト デア シュタルケ王自身の設計になるオランジ園が築かれていました。しかし王はそれには満足せず、宮庭建築家へッペルマンが起用され、未だ何処にも類を見ない革新的な水平線上に凱旋門に似た門があり、平で長く伸びたテラス式館、そこに並ぶ窓、列柱を有する歩廊が設けられています。
通路対向のクローネントアー王冠の門は、象徴的で王冠はポーランドの鷲4尾で支えられており、王がポーランド国王であった事も示しています。
この門を中央にして左右へと長廊館が並び、その右手には、数学物理学館があり、中には自然科学の諸機器、時計、地球儀、天球儀、計算器等が展示されています。
また、この反対側には、陶磁器が莵集されていた、その展示をご覧になることができます。その中でも、軽騎兵の花瓶は有名で、アウグストデア シュタルケは、これを所蔵したいがために、ザクセン軍の軽騎兵600人を、当花瓶の売り手であったプロイセン王フリードリッヒ、ヴィルヘルム1世に委ねたことによると言われています。

ゲメルデ ギャラリー アルテマイスター

 

3000点以上の近世の西洋絵画の粋が集められている絵画館。イタリアのコレッジョ、ラファエロ、ティチアーノ、ジョルジョーネを始め、フェルメール、ファンデルフト、ファンアイク、レンブラント、ルーカスクラナハ、デュ-ラー、等。中でもラファエロの傑作「サンシストの聖母」は、一躍この絵画館アルテマイスターを、世界有数の絵画館へと名声を高めて行きました。
★ゼンパオペラ劇場

ドレスデンの音楽の都としての名声は、演劇並びに歌劇用の劇場が建設された16世紀に始まります。ゼンパオペラ劇場ができる1841年、アルプス以北で初めての劇場が、ここドレスデンに建設されていました。ゼンパ劇場のできる前に活躍していた有名な音楽家としては、ハインリッヒシュルツ、JSバッハ、メンデルスゾーン、ウェーヴァー、ボルドー二などがいます。
このゼンパオペラは、イタリア盛期ルネッサンス様式のこのオペラ座は、王室歌劇場として、開幕。ここの音響は世界でも最高であり、ミラノのスカラ座よりもよいと言われています。この建築家であった、ゴットフリート ゼンパーの名は世界中で有名になり注目の的となりました。翌年の1842年にはリヒャルド ワーグナーが当劇場の指揮者として招聘されています。楽長の仕事の傍ら、自作のオペラ、さすらいのオランダ人、タンホイザー、ローエングリンの初演をここで果たしています。
ゼンパオペラ劇場バックステージツアー
英語とドイツ語でのご参加が可能になります。ツアー開催の時間は、毎日異なりますので、ティケット販売の窓口でお問い合わせ下さい。時間の枠は、13時から夜遅い時には、23時開始に設定されています。
モーツァルトとドレスデン

 

モーツァルト(1756ー1791)が亡くなる1年半前、ドレスデンを訪れています。プラハからベルリンへ向う途中、宮廷教会で、バッハの時代のオルガン製作者ジルバーマンのオルガンを弾きました。プラハでのドンジョバンニの初演を大成功裡に納めた時の、女性歌手が丁度ドレスデンを訪問しており、その伝手でザクセン国王の前での演奏が催される事になったのです。後世このモーツァルトの訪問を記念して、像がドレスデンから東方向へ歩いて15分くらいのところにあるブリュガーヴィーゼに建てられました。
聖母教会、十字架教会、宮廷教会での年間通じてのコンサート、夏場のツゥィンガー宮殿中庭でのコンサート など、音楽の催しが盛りだくさんの、バロックの町ドレスデンです。

★ドレスデン宮殿レジデンス

 

1530年に建てられた、ドレスデンのレジデンス。とにかく多角的に、時代ごとに拡張されたこともあり、面白いことには、100年~200年のスタンスで色々な時代のはやりであった建築様式の粋を見ることが出来ます。。例えば、中庭には、ズグラッフィート画法に夜ファッサードが見られ、グレーに繊細な白の彫り物がコントラストを成し、ウットリする程綺麗なんです。アウグスト デア シュタルケの収集した宝物が、このお城の中の「緑の屋根天井」の部屋でご覧になれます。ダイヤモンド、ルビなどキラキラ光る宝石で作った置き物、金銀の置き物, その中でも有名な物は、「インドデリー在の王国」に見られる「ミルミロンの興し」、金塗りのコーヒーセット。見るだけで溜め息がでる程、美しく、まさにおとぎ国の世界が眼前に広がっていきます。グリューネスゲヴェルベという緑の天井の部屋にで、お楽しみ下さい。

聖母教会

この教会の中に足を踏み入れると、壁や天井にはパステルカラーの温かい色調で聖書の中からのストーリーが描かれていて、所謂プロテスタントの教会のイメージが払拭されます。ここのパイプオルガンは、ジルバーマン製作で、1736年にヨハンセバスチャンバッハが、このオルガンを弾いています。その後200年以上もあと、第二次世界大戦下1945年2月13日に爆破されてしまい、東独時代には、再建の日の目を見ませんでした。ベルリンの壁の崩壊後ドイツ再統一の後には、世界中から寄付金が集まり、2005年晴れて再建築され、イギリスからエリザベス女王がご訪問。

宮廷教会

シュロス広場の西側にそびえているのが、宮廷教会。ルターの宗教改革以来、ここドレスデンもほとんどが新教へと改宗した後、アウグスト強王が18世紀初め、お隣のポーランド王国を手に入れ、ザクセン王国とポーランド王国の両方の王様になった暁には、このドレスデンにもキリスト教カトリック旧教の教会、宮庭教会を建てました。第二次世界大戦争下大きなダメージを受けたこの教会内には、反戦の意味を込めた祭壇があり、合掌する人の列が絶えません。

展望台ブリュール シェ テラッセ
エルベ川の西側の岸の小高いところに、広いテラスが広がっています。ゲーテは、このテラスを「ヨーロッパのバルコニー」とほめ讃えていました。バルコニーから眺めるエルベ川面の曙光、それは正に絶景です。
歴代君主馬上行進図

ザクセン国を支配したヴェッティン家出の君主達が描かれている35人の大公。選定候、お発ちの馬上の姿が描かれています。この図は、タイル状のマイセン焼。100mの長さが1000年の歴史を語り壁を飾っています。

ちょっと足を伸ばして、ピルニッツ城へ

ピルニッツ城

 

 

バロック様式の大きな庭園に加えて、山のお城と水のお城、アウグスト強王使用のゴンドラをみることができます。18世紀流行していたシノワセリーという東洋指向により、館も、バロックとルネッサンスの両建築様式が釣り合いの取れた形で緩和しているのみならず、全建物が周囲の自然と完全に解け合っています。庭園には、西洋クリの並木道が続き、イギリス式庭園の中には、ヨーロッパで一番古いとされる、日本産の椿。カメーリエが植えられ、それが高さ8mという大木で、花冠の直径9mにも及ぶということから、鉄とガラスからなるモダンな温室に入っています。この他にもオランダの園、中国の園と名付けられた庭園、松柏の森、自然の中での探索をお楽しみ頂けます。
ここピルニッツへは車で約30分。
よい季節には、遊覧船でエルベ川クルーズ、ピルニッツとドレスデンの往復をお勧めします。
エルベ川クルーズ
エルベ川の蒸気汽船はすでに100年の歴史を持つシロモノ。ゆっくり遊覧船でピルニッツまで、行く間には、戦前にすでに有名であった、ロッシュヴィッツというところを通ります。そこには数々の立派なヴィラと呼ばれている館が建っており、世界の財界人芸能人が 好んで住んでいたところだとか。またゆっくり川を上っていくと、チェコの国境に近付いていくにつれ、ボヘミア地方の丘陵が遠くに見えて来ます。そんな光景に、中央ヨーロッパにたたずんでいるのを実感されることでしょう。

 

 
 
 

ザクセンスイス ハイキングや自然を体感されたい方へお勧め

ザクセンスイスは、ドレスデンの旧市街から車で50分

ドレスデンの郊外ピルニッツ城をさらに東南へ下っていくと、ザクセンスイスに着きます。
喧騒たる都会を離れ、ふと一息つきたいそんな時、エルベ川の上流にそびえる岩肌。トレッキングを楽しむ若者の姿もここでは珍しくありません。ドイツとチェコとの国境付近にあります。
 
 
 

千年の古都マイセン  ヨーロッパ最古の陶芸の町

そして高級ワインのの原産地!! 耳寄りなニュ-スをお届けします。

司教の座として栄えたマイセンの大聖堂は、ドイツ屈指の歴史のあるドームとよばれる大教会です。市場から出発し、狭い石畳を上っていくと、眼下にエルベ川とその川辺に広がる赤煉瓦の家が広がって行きます。そして大聖堂の隣りにそびえ立っている、お城アルブレヒト城は、ねむり姫にでて来るようなロマンティックなお城。ここでマイセン焼のオリジナルの焼き物が完成したそうです。画像は、エルベ川の対岸から見たそびえ立つドームとアルブレヒト城
マイセンでドイツの来し方の一端に、思いを巡らせてみませんか?.

マイセン陶磁器工房
ヨーロッパ最古のマイセン焼ができたのが、1710年。ドレスデンにレジデンスをおいていた、アウグスト強王は、この白い美しい、陶磁器が欲しくて欲しくて、たまらなかったんです。マイセン焼ができるまでは、中国からまた日本から陶磁器を輸入していました。そのためにありとあらゆる手段をつくしました。そこで、最終的に錬り金師のベットガーをアルブレヒト城に幽閉して、製作に専念させ、その結果マイセン焼の誕生に日の目を見ることができました!
そのあと、ケンドラーにより、芸術的な質が高められ、現在まで世界でも高品質を誇って来ました。
工房の中は、制作の過程ごとに別れている部屋を順々に見学することができ、2階には世界唯一の博物館があります。マイセン焼は今や世界中で入手することができますが、この博物館は、ここにしかない大変貴重な、マイセン焼の歴史を数々の作品を通し垣間見ることができます。

内にはアウトレットもあります。高価なマイセン焼ではありますが、2級品も販売しています。2級品と言っても、それは、専門家でなければとても見極めのつかない、窯で焼く過程に於いてのミスだそうです。
休憩をなさりたい場合は、1階にカフェがあり、2階にレストランがあります。食器はもちろん全て、マイセン焼!優雅な古都マイセンの雰囲気を十分味わっていただけること請け合いです。
ドーム
ザクセン王国は、ここマイセンに端を発して発展して行きました。その発展に大きく寄与して来たのが、この司教の座。その司教がこのドームを中心に布教して行きました。ドイツでは一般的に、教会の中でも大きな建物は、ドームと呼ばれています。このマイセンのドームはもともと1266年に建てられていた教会、その後改築をしていき、現在の形になったのは、1477年。その後、マイセン焼の芸術家ケンドラーによって、祭壇がデザインされるという、マイセンならではのドーム。
ドームの前の広場には、ドームゆかりの穀物の倉庫やドームケラ-と呼ばれている最古のレストランがあり、そのレストランのテラスからは、エルベ川の眺望をお楽しみいただけます。
アルブレヒト城
お城の山という名前のついた小高い場所に陣を構えたお城は、ドイツの中でも中世後期のゴシック期の風格を持っているということで、有名です。初期には929年にすでにお城が建てられていたそうですが、現在の姿はそれから500年後の建物のようです。このアルブレヒト城には、マイセンの市場から登っていく道と、このお城の後ろ側のエルベ川方面から登っていく道があります。後方は、急な石段を上り詰めていくことになりますが、お城を間近に見ることができ、圧巻です。
お城の中では、ザクセン選定候アウグスト強王がベットガ-を幽閉して、陶磁器制作方法を発見せしめた、その部屋を見ることができます。

マイセン市場
先ず市場で一番に眼につくのが、立派な市庁舎。1472年に建てられた物で、アルブレヒト城の優雅な趣にぴったり合います。その後、1500年以降に建てられた民家が、市場の西側に並んでいます。この家々は、ルネッサンス様式になり、ゴシックの時代とはまた趣が違うのですが、程よく市庁舎と調和しています。そこでは、現在マイセンのワインが売られていて、ワイン好きの方にはまた1つのアトラクションとなってるようです。

また、同時代に建てられた聖母教会も、時折そこで奏でる陶磁器で作られた 教会の鐘の音が、歴史豊かなマイセンの町の雰囲気に彩を加えています。
★エルベ川とマイセンワイン
エルベ川は、プラハのあたりから、川下はハンブルグまで流れています。この川の両岸にはサイクリングロードが造られていて、何とプラハからハンブルグまで細工リンングで移動することもできるんです。また、東ドイツのワインの北の限界はこのマイセン辺りだと言われています。このエルベ川にたたずむマイセンで作られている葡萄は、手で一房ずつもぎ取られるため、傷がつき難く、大変良質のワインです。是非お試し下さい。

image

モーリッツ城

エルベ川をマイセンから東に越して15Kmのところに、猟のお城、モーリッツ城がそびえています。現在のお城は、ザクセン王国アウグスト強王がバロック式に立て直したものです。人口の湖があり、一見優雅な水の離宮を思わせる程インパク感があります。このモーリッツという名前は、(1523~53)に統治していたザクセン公モーリッツの名前にユライしています。

現地の事情にお悩みのお客様に、適切なアドバイス!!

今やヨーロッパの命運をになうドイツ。

壁の構築から崩壊に至り、さらにヨーロッパと一体化して行くドイツ。そんな魅力の尽きないあなただけのドイツの旅を、デザインさせて頂きます。

 

お客様の喜びの声

image

★★河原様ご夫妻
10月中旬に4日間お世話になりました。
ベルリンを拠点に、車でポツダム、マイセン、ドレスデンにも行きました。
ベルリンではブランデンブルク門、国会議事堂、ベルリン・フィル、ベルリンの壁、博物館の島、KaDeWeデパート、ハッケシャー・へーフェホフ等々、盛りだくさんでした。国会議事堂の上は鉄とガラスで出来ていてオシャレな感じでしたが、実はエコ建築とのことで感心。また、第2次世界大戦中に政治の中心だった宮殿が跡形もなく、今では説明の看板が立っているだけで、マンションや普通っぽい建物になっていたのが印象的でした。
ポツダムへ行く途中には、森や湖があちこちにありました。ちょうど紅葉まっさかりで、とてもきれいでした。サンスーシー宮殿の内装の豪華さに圧倒された反面、フリードリヒ大王のお墓が意外に簡素で、ジャガイモまでお供えされており、ちょっと可笑しかった。
image マイセンではアウトレットでマイセン焼きを半額でゲット!ドレスデンのゼンパオペラ劇場や婦人教会の内装にはドイツ人のこだわりと器用さを感じました。  白ワインは地方ごとに種類が多く、とても香りがよかったです。旬のニシンをたたいてピクルス等の薬味と混ぜたものを、バターを塗った薄切りの黒パンに載せて食べたり、仔羊のローストを食べたりしましたが、どれも美味しかった。
KaDeWeデパートの食料品売り場も素晴らしかったです。
・・・他にも色々と思い出はあるのですが、書ききれませんので、このくらいにしておきます。連れが撮った写真も見て下さいね。楽しく安心して良い旅ができたことに感謝します!
 
 
 
 

 

 

ユネスコ世界文化遺産 ゲーリッツ は、ドレスデンから車で片道1時間半

ゲーリッツ の見どころ
町は、国際映画のロケーションに使われる程、絵に描いたように美しく、ツーリストの訪問が後を絶ちません。

 

歩いてドイツとポーランドの国境の橋を渡ってみませんか?

 

 

 

歩いてドイツとポーランドの国境の橋を渡ってみませんか?

ゲーリッツ の町は、人口57000人程の小さな町ですが、ナイセ川を挟みポーランドとドイツの2カ国にまたがっています。
街の歴史は複雑で、シュレージアという旧のポーランドに属していたかと思えば、1815年のウイーン会議以降はドイツのザクセン地方に属し、行くはプロイセン王国に属しています。そして、第二次世界大戦後は町が二分されるという、一貫した権力者の元に町が発展していったのではなく、戦争により所属する国が変わっていくという、ヨーロッパ特有の歴史を背景に持った町です。
町は、国際映画のロケーションに使われる程、絵に描いたように美しく、ツーリストの訪問が後を絶ちません。

 
 
 
 

 

ライプチッヒ ベルリンからドイツ鉄道ICEを使用して片道1時間10分

ライプチッヒの見どころ
ライプチッヒは音楽の町、そしてドイツで最初に開かれた見本市の町として有名です。

 

ライプチッヒはドレスデン同様大変に歴史のあるザクセン州にあるビジネス・音楽の町です。
音楽の父JSバッハを始めメンデルスゾーン、シューマンの音楽家としての足跡も見逃せません。

ライプチッヒで活躍した音楽家の足跡
JSバッハ
トーマス教会
少年合唱団というと、日本ではウイーンが有名ですが、ここライプチッヒに、トマーナー合唱団という800年の歴史を持つ合唱団があります。ヨハンセバスチャンバッハも1723年から亡くなる1750年までライプチッヒに住み、様々な音楽活動をしました。そのトーマス教会のオルガン奏者、ライプチッヒ大学の音楽教師、トーマナー合唱団以外にも日曜日に歌う聖歌隊のコーチ、等など。このトーマス教会には、バッハが亡くなった約100年後に、メンデスルゾーン、シューマンの力により、バッハの記念碑が作られました。毎週金曜日に、モテッテという小さなミサとそれに伴う合唱を聴くことができます。
バッハ博物館
クラシック音楽ファンのみならず、ヨハンセバスチャンバッハの生き方が具に分かり、その当時のライプチッヒの時代背景も掌握できる博物館です。27年間博物館に隣接するトーマス教会の音楽監督のみならず、世界の音楽史上に貢献する程の業績を残したヨハンセバスチャンバッハ。彼の筆跡も残っており、クリスマスオラトリオ、マタイ受難曲等のオリジナルの楽譜がご覧になれます。この博物館は、世界的な規模でバッハの研究をしているバッハ教会に属します。毎年、6月にはバッハフェスティヴァルが開かれ、バッハファンを魅了してやみません。

 

バッハの残した「コーヒーカンタータ」という曲の背景は、ちょうどライプチッヒで、コーヒーを飲むようになり、そのコーヒーを讃えたもの。その当時コーヒーは、何処でも手に入ることができず、ベルリンのプロイセン王国の王様は、丁度このときライプチッヒから買い付けていたんです。そんなクールな歴史のあるライプチッヒ!!

ニコライ教会
およそ1180年ごろに建てられたニコライ教会は、ライプチッヒの町にある教会の中では最も権威があり、現在の姿は、1796年に完成し、古典主義の様式になっています。トーマス教会の音楽監督は、このニコライ教会の音楽の間時に携わる義務があったことから、JSバッハはこのニコライ教会の音楽行事にも精力的に従事していました。有名なJSバッハのカンタータやオラトリオなどもトーマス教会と同様ここでも新作が発表されていました。毎週月曜日の17時から始まる平和を祈るミッサは、1989年11月の旧東ドイツ没落は、ライプチッヒニコライ教会の月曜日のミッサが源流となり、全東ドイツに平和の革命のうねりが広がっていった、教会のみの活動にとどまることなく、社会的にも大きな影響を与えていった、意味のある教会の一つとなっています。
メンデルスゾーン
メンデルスゾーン博物館
メンデルスゾーンは、ユダヤ人としてハンブルグに生まれ、祖父は大哲学者、父は銀行員として裕福なまた学術的にも優れた家系に生まれ育ちました。この家で作曲した中に、オラトリアムエリアスがあります。毎週日曜日にここの居間でコンサートが開かれ、親友のロベルトシューマン、クラーラシューマン、ワーグナーもここを訪れ音楽を奏でたということ。また展示してある家具は、オリジナルで、フェリックスメンデルスゾーンの家族が、好んで夏のバカンスを楽しんだ、スイスのインターラーケン。そこで描いた水彩画もあります。

 

メンデルスゾーンの姉のファニーも有能な音楽家であり、作曲をした後、一番始めにコメントをもらっていたという筆跡もご覧になれ、メンデルスゾーンのあまり知られないプライベートを知ることができる博物館です。

ゲヴァントハウス
世界的に有名な、ライプッチヒ・ゲバントハウスオーケストラの本拠地。この建物は、1498年ライプツィヒの旧市街に武器庫として建てられました。 1階が布や羊毛の商人によって見本市(デパート)として使用された後、建物全体はすぐにゲヴァントハウスと呼ばれました。
1743年、16人の商人がライプツィヒに集まり、大きなコンサートを開くことを計画。当初は16人の音楽家で構成されていました。最初のコンサートがスタートしました。は1743年3月11日に行われました。
オリジナルのゲヴァントハウスでは、クラシック音楽の重要な作品の世界初演が数多く見られました。これらは今日、世界的なコンサートの標準的なレパートリーの一部となっています。フェリックスメンデルスゾーンバルトルディは、ゲヴァントハウス管弦楽団の重要なカペルマイスターの1人でした。
ロベルトシューマン、クラーラシューマン
シューマン博物館
1840年、クラーラのお父さんに反対されていたシューマン夫妻は、ついに結婚にたどり着き、移り住んで4年間住んだのがこの博物館になっていた家でした。その間、シューマンは、独創的に作曲をし、有名な交響曲「春」もここで作曲しています。それを、親友のフェリックスメンデルスゾーンガ指揮をし、ライプチッヒゲバントオーケストラが演奏し、一躍有名になりました。その模様も展示されています。またロベルトシューマンは、「ノイエ ツァイト(新時代)」という名前の音楽新時報を発行していたことも、合わせて展示されています。これは約10年の間自力で出版され、古い伝統的保守的な楽団を鋭く批判するもので、文才のあったシューマンが英筆をふるい、革命的な存在で、音楽会に多いに新風を送りました。
クラーラの生家
クララ・ジョセフィン・シューマン・ニー・ウィック(1819年9月13日ライプツィヒ生まれ、†1896年5月20日フランクフルト・アム・マイン)はドイツのピアニスト、作曲家、ピアノ教授、編集者であり、1840年からロベルトシューマンの妻でした。
クラーラは、神童としてピアニストのキャリアを開始し、ロベルト・シューマン、フレデリック・ショパン、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン、ヨハン・セバスチャン・バッハ、フランツ・シューベルトが彼女の好きな作曲家でした。欧州を舞台として幅広くピアニストとして演奏する傍ら、彼女は音楽院での教授としての仕事、楽譜の編集、自らも作曲をし、家事を始め4人の子供の子育てという多忙な毎日を過ごしていました。音楽史上、19世紀後半から20世紀のコンサートレパートリーの基礎を築いた音楽家です。
クラーラは、現代に入り1960年代から作曲家として才能を再発見されました。それ以来、生き残ったクララ・ウィック/シューマンの作品のほとんどすべてが、現代の楽譜版や原稿や版画のデジタルコピーとして徐々に具体化されてきました。それらは音楽学とコンサート音楽の主題であり、昨今サウンドとビデオの録音で広く使用されています。
グリーク
グリーク出会いの場所
15歳のバイオリニストとして才能を認められたノルウェー出身のグリークは、4年間ライプチッヒ音楽院にてピアノを始め音楽を学びました。のちに自身の研究について触れ、ライプチッヒでの勉強方法は、保守的であり実りがなかったと後に供述しています。
ワーグナー
ワーグナーの生家
リヒァルトワーグナーは、1813年5月22日に、警察官の9人兄弟の末息子としてライプチッヒで生まれました。同年父親が亡くなり、母親が再婚でドレスデンへ引越ししたため、その後ここに住む事はなく、音楽家として有名になった暁には、名前の銅版が家の建物に埋め込まれていました。戦争で破壊された後、最近になって2012年に復元されました。

 
 
 

ザイフェン ドレスデンから車で片道約1時間10分

ザイフェンの見どころ

おもちゃの町ザイフェン。

おもちゃの町ザイフェンは、エルツベルゲ山脈の中にある小さな可愛い町です。冬のクリスマスにはイルミネーションが綺麗で、クリスマス用の飾りや、くるみ割り人形を買い求めに世界中からのお客様で賑わいます。冬場の方が観光客は圧倒的に多いのですが、夏場は、エルツ山脈を山歩きする人で賑わいます。

ドレスデンから車で緩やかに山の中に入っていくと、小川のせせらぎが、何とものどかな保養地を思わせてくれます。

 

バウツェン ドレスデンから車で1時間弱

バウツェンの見どころ

百塔の町。

ドイツに住む少数民族ソルベ民族の博物館があり、この町には百の塔があったと言われます。ドイツ人の築いた生粋の文化ではなく、ソルベ民族の文化が残っており、色彩の見事な美しい町並みは、絵本を開いたように色とりどりです。またソーセージにつけて食べるマスタードの産地でもあります。

 

 

 
 
 
 
 

 

 

 

ワイマール ゲーテ&シラー 疾風怒濤文芸復興

見どころ

ユネスコ文化遺産のバウハウスが初めて建設されたのが1919年。その100年前には、シラーとゲーテが革新的な文芸復興を始めた場所でもありました。
 
 
 

 
 
 
 

世界ユネスコ文化遺産 ヴァルトブルグ城の町 アイゼナッハ

アイゼナッハの見どころ
ルターの新訳聖書と J.S.バッハ生誕の地で有名
ご存知ですか?ワーグナー 歌劇タンホイザーの歌合戦の歴史的舞台がー。
ドイツの中世の古城の中では一番古く歴史的な意義を持つヴァルトブルグ城

 

約950年のドイツの重要な歴史を物語る 中世の城

ヴァルトブルグ城から見下ろすチューチンゲンの森
ドイツの地図を開くと、丁度ど真ん中にあるのが、アイゼナッハが位置しているチューリンゲン州。このチューリンゲンには、チューリンゲンヴァルト(チューリンゲンの森)と言われている、長さ60Kmに及び、高さ800m~900mの大きな森が広がっています。その北西にあるのがアイゼナッハのヴァルトブルグ城。お城から南方面を見ると眼下にこの大きな森が広がって来ます。このお城では、中世の頃、歌合戦が行われており、その史実をリヒャルド ワーグナーが、歌劇タンホイザーに取り入れ作曲しました。

1517年には、マーチンルターが、このお城に保護され、ここで平民でも読めるような新訳聖書を表し、キリスト教の宗教改革に大きく貢献しています。お城の中には、その時のルターの部屋が残されており、来し方を垣間見ることができます。

ルターが旧約聖書をドイツ語に訳したヴァルト城の中の一室

中世の頃に存在していた、歌合戦。このお城での歌合戦を題材にして、リチャルドワーグナーが、歌劇タンホイザーを作曲したのです。その歌劇をその中世の当時の演出に極力近づけて公演されました。その時の衣装等もみることができます。

ワーグナーの歌劇・タンホイザーの物語の舞台になったのがこのヴァルトブルグ城に実際あった中世の頃の歌合戦。
またお城の中を見学するだけではなく、古城ホテルとして、宿泊することもできます。5つ星のこのヴァルトブルグホテル。ドイツの中世の頃の名残が至る所にあり、雪で銀色におおわれたチューリンゲンの森を眺めながら、ぱちぱちと音をたてて燃える暖炉を囲み、談話する。そんな黄金のときを過ごしてみるのも、オススメのヴァルトブルグ城でならばの、ご体験でしょう。。。

 

 

★★音楽の父バッハの故郷

バッハの生家

バッハフアンの皆様には、もうたまらない程の魅力のあるチューリンゲン地方。ここには、音楽家大バッハの家族、親戚の足跡がい~っぱい残っています。J.S. バッハの生家では、その当時の生活の様子を見ることが出来る他、バッハの使用した楽器が、沢山展示してあり、古楽器を含めて演奏を聴くこともできます。
パイプオルガンも初期の物で、まず初めに空気を溜め込んで弾いていたオルガン、旅行用のオルガン、等あり、さすが教会のオルガニストでもあったバッハが、如何にパイプオルガンに含蓄が深かったかが伺われます。バッハの直筆の楽譜も見られ、その展示室では時代を追って作品を聴くことができるような装置があります。少年バッハは、ここアイゼナッハで生まれ、10才で両親を亡くし、長男に育てられるまで、ここに住んでいたと言われています。

ルターがヴァルトブルグに住んでいた頃の家

 

★★宗教革命の父 ルターの新訳聖書
ヴァルトブルグ城にて新訳聖書を表す
ここヨーロッパに貫かれている、キリスト教の精神。そのキリスト教の改革をした立役者が、マーチンルターです。1517年にマーチンルターが、正式に新訳聖書を表し、それまでの長い間の教会権力の腐敗に終止符を打ちました。租税の徴収に悩まされていた農民達が立ち上がり、農民戦争を起こし、ルター-は正に革命のときであると、轍を踏んだという背景があります。その当時の王が、このヴァルト状に彼をカクマイ、ルターの偉業を助けました。画像は、ヴァルトブルグのお城の中のルターが聖書をドイツ語に訳した部屋です。旧市内のバッハの生家から、歩いて10分のところに、ルターの住んでいた家があります。