🇫🇷アルザス・ストラスブールを訪ねてアップデート・ライン川編

🇫🇷アルザス・ストラスブールを訪ねてアップデート・ライン川編

🇩🇪 メルマガ「ドイツもこいつも. . . 」No.121

ベルリン通訳ガイドの後藤裕起子です。今日もメルマガを開封して頂きありがとうございます。
酷暑の続く日本列島💦 読者の皆様いかがお過ごしでしょうか?

昨夏、弊メルマガにて、独断と偏見🤣 これを読んでも賢くならない🥴 ライン川編3部作をお届け致しました!!

💥ライン川に佇む古城訪問 中世の騎士道にタイムスピリット。

💥もしもライン川がなかったならば、、。。

💥憧れのライン川!古城ホテルに泊まって、食べて、触って、歩いて

記憶の片隅に残っている方も、そんなのもうどこかへ行っちゃった〜方も、読んでもいない方も、皆様まとめて、本日はアップデート・ライン川編をお届けいたします。

なんと、今や世界が同時進行している新時代。ベルリン観光ガイドが、ライン川を渡って、アルザスにまで出稼ぎに行く時代 💫も、遠い夢の話ではなさそうです。。笑

ええ〜っ コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが、意欲に燃えるコロンブスで、西暦1492年の出来事。それを思えば、ベルリンガイドが、ライン川を東から西へ渡るなんていうのは、話題にもならない、😖  そんなこと自慢すんなよな〜 🙄ってな声も聞こえてくる wow

父なるライン。

おとぎの国から顔を出したような、思わずため息の出る、可愛い町の一角と出会うことができ、そんな発見が嬉しいストラスブールの訪問でした。

1988年に世界ユネスコ文化遺産に指定されているということから、町は完璧に管理が行き届いており、美しさをキープし続けてきた、ご苦労の足跡が見られます。

<レ・プティット・フランス >

ストラスブール旧市街にあり、アルザス地方特有の木組の建築物が美しいエリアです。本当に絵に描いたような家々が並び、何処を見ても、カメラを向けてワンショットしたくなります。

朝早く起きて、ツーリストのいないウチに、さっさと出かけて、写真だけゲット。笑 どこへ行っても観光客で賑わっています。優雅に白鳥が泳いでいて、なんとその白鳥が道路に、ノコノコ上がってきたんです。
白鳥の大きな羽に打たれたりしないよう、人々は距離を置いていました。

 

このエリアの名前の由来は、二つあるそうですが、フランスという名前をフランスで付けること自体、昔ここはフランス領でない時代があったことを匂わせますよね。

プティットフランスとは、フランス語で、小さなフランスを意味するそうです。
この名前の由来は、16世紀あたりまで遡り、1517年、ドイツのヴィッテンベルグで端を発したルターの宗教改革があり、フランスに住んでいたプロテスタント教徒が、締め出され、ストラスブールに逃げてきて住んでいたとか。。

その当時は、ストラスブールは、まだフランスではなかったんだそうです。フランスに併合されたのは、17世紀の末らしい。。名前の由来の一つに、この時代小さなフランスという意識があったのは、当然のこと。

また、産業が発達していた時代があり、この木組みの家の中で、革製品を作っていて、その水で洗った皮を家の建物の上部で乾かしていたため、窓が大きくくり抜かれていたそうです。

何しろ、水は豊富でライン川の支流イル川から引かれた4本の運河があり、その水路を使って製品を輸出しており、産業も発展していったことでしょう。

ところで、ドイツのバンべルグをご訪問されたことのある読者の方は、「アレ_〜どっかで見たような景色だな〜」と思われる節もあるかもしれません。

そうです、バンベルグには、@小さなベニス というエリアがあり、木組みの家々が、川沿いに建てられていて、町の一角の雰囲気が、大変よく似ています。

<カテドラール>

ファッサードと呼ばれる玄関の彫刻が素晴らしく、250年くらいかけて建設されたとか、、。日本は、平安時代に、既に建設をし始めていたそうです。

教会の中は、ケルンの大聖堂ほどではないにしろ、広く、特に天文時計とバラの窓と呼ばれる光線が挿すと繊細なモティーブが現れてくるステンドグラスとマリア様のステンドグラスが見事でした。

       

<ノイシュタット>

ここは、フランスの都市ストラスブールの地区です。ノイシュタットとは、ドイツ語で新しい町という意味。フランス語の正式名称もノイシュタットです。

この地区の開発は、ストラスブールが 1871 年から 1918 年までアルザス ロレーヌ帝国の首都であったときにドイツ当局によって行われました。新市街は、中世の旧市街とともに、2017 年から「ストラスブール:グラン ディルから新市街まで、ヨーロッパの都市の風景」という名前でユネスコの世界遺産に登録されています。

「ドイツ地区」とも呼ばれます。

@ 背景に潜む歴史

1870/1871年の普仏戦争は、フランスと、プロイセン率いる北ドイツ連邦とその同盟国であるバイエルン州、ヴュルテンベルク州、バーデン州、ヘッセン=ダルムシュタット州の南ドイツ連邦との間の軍事紛争を指しています。

この戦争は、長い間プロイセンに君臨していたホーエンツォレルン家が、スペイン王位に立候補をめぐるフランスとプロイセン間の紛争が背景にございました。

1870 年 7 月 19 日、フランスはプロイセンに宣戦布告しました。フランス皇帝の予想に反して、南ドイツ4州が参戦し、誰もフランスを守ることはなく、他の欧州諸国は中立を保っていましたし、最終的に、17,000人のフランス兵は40,000人の兵力と近代的な大砲を擁するドイツの優勢には太刀打ちできなかった。

フランス軍は大敗しました。

ビスマルクが掲げた再建計画は、市の面積は3倍になり、大規模な土木拡張の計画が始まりました。

1870 年から 1915 年の間に、ストラスブールの人口は 80,000 人から 180,000 人に増加したということです。

新規参入者の大部分はドイツの公務員であったため、多数の大規模な新しい建物が必要でした。新しい建物の建設費用は総額 1,700 万マルクを超え、ストラスブール市民はその金額を 10 年間にわたって賠償金として支払わなければなりませんでした。

@ Straussburg meets German

その後、この地区は、まさにドイツの1871年〜1918年あたりの建築様式をそっくり持ってきました。。フランス人建築家とドイツ人建築家がコラボして建設した地区になります。

が、正直なところ、おしゃれな「おフランス風」というよりは、質実剛健のドイツ風で、まあコンセプトとして悪くはないものの、フランスで食べたドイツの黒ぱんの味がしましたよ。

バゲットを丸齧りする方が、四角く薄い黒パンを食べるのって、今一つ乗りが違うのでは、、。

ノイシュタットは、ドイツで見るより、ドイツ的な雰囲気を醸し出していました。笑

ノイシュタットにある旧皇居・カイザーパレス

本日も最後までお読みいただき誠にありがとうございました。

 ドイツ地区の一角で、ワンショット。
ここのところ、雨が多く、気温も最高22度位。傘をさして、カーディガンを着てのシュトラスブルクの散策でした。皆様どうかお元気でお過ごしくださいね。

SEE YOU SOON💙

Best regards from Berlin
ありがとうございました!
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ベルリン通訳観光ガイド 後藤裕起子

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