フランスの大思想家ヴォルテェーアも泊まった・フリードリッヒ大王のサンスーシ宮殿

フランスの大思想家ヴォルテェーアも泊まった・フリードリッヒ大王のサンスーシ宮殿

🇩🇪 メルマガ「ドイツもこいつも. . . 」No.119

ベルリン通訳ガイドの後藤裕起子です。今日もメルマガを開封して頂きありがとうございます。

驚くことなかれ、ベルリンは、耕地面積の1/4が緑で覆われるという、素晴らしい自然環境にあります。水路も加えると、1/3の恵まれた緑と青のコントラストが美しい町なんです。

欧州の首都を鑑みましてもこれだけ自然に恵まれた首都は、他にございません。

東京にお住まいの読者の方々には、申し訳ございませんが、六本木ヒルズ等に、ビルのコンクリートにちょび髭が生えたような緑化とは、スケールがダンチで違います。笑

「おいおい、江戸っ子を馬鹿にすんなよな〜。」というお声が、海を超えて飛んできそうですが、、。

朝は、毎日小鳥の囀りで目が覚めます。春の到来とともに、拙宅の場合、ここベルリンではすでに何十年も早朝からの自然との会話が定番となって参りました。

さて、今日のお話は、ユネスコの世界文化遺産にも認定されている、隣町ポツダムに佇むサンスーシ宮殿のお話。

サンスーシとは、フランス語で憂いがないという意味だそうで、この宮殿を建てたフリードリッヒ2世、国民からは、フリードリッヒ大王と慕われていた王様が、夏の離宮として1745-1747の2年間で建てられた shiroモノ  🏰

(この作品はアンディ・アルホルの作品でサンスーシ宮殿で見ることができます。)

ベルリンからポツダムには、公共交通機関をお使いになります場合は、Sバーンか在来線で行くことができますが、ポツダムの中央駅からですと、バスか電車での移動になり、タクシー等、車で行くのが最高です。

なぜなら、ベルリンとポツダムの間には、風光明媚な深い森や、湖、孔雀の島も横たわっているのです。これぞまさしく、欧州の首都としては、ベルリンにしかないと言っても過言ではない、地の利をご満喫することができるのです。

                       

渡し舟に乗って対岸につくと、そこは孔雀の島。孔雀が屋根の上から私達を眺めています。

🛶


フリードリッヒは、その当時、フランスに起きた新思想。。啓蒙思想に深く傾倒しており、稀に見る民主的な趣向を持っていた王様でした。

例えばお隣のドレスデンの王様、フリードリッヒのお父さんと同時代に生きたアウグスト強王と比較すると、、。

フリードリッヒのいない時には、サンスーシ宮殿を国民に謁見の自由を与えていました。

それに対し、ドレスデンを、エルベ川のフローレンスにしたいと強く願っていた、アウグスト強王の場合は、狩猟で得たご馳走を、ツインガー宮殿の内庭の噴水の前にテーブルを出し、皇室がそのご馳走にありつくのを、国民に見せていました。

まっ、それも謁見の自由を与えるという領域なんでしょうが、、。Wow
ろくに肉の丸焼きなど口にすることのなかったことのできない人々は、観るに忍びない思いをしたことでしょう。

😱😱😱

日本でよく耳にする、「空気を読む!?」この場合、アウグスト王の神経は、どないになっとんのや〜?動物的な感覚をお持ちになっていたんだろうか、、。
🥴
フリードリッヒ大王は、「朕は国家第一の下僕なり」と当時、大変画期的な、民主的な啓蒙思想を提唱していました。

啓蒙思想という思想は、18世紀後半にフランスの国王と妃が、ギロチンの刃の露に消えて行ったあの有名なフランス革命のべースになっており、民衆主権の革命政治の牽引力として、民主化の道に民衆を導いた有名な思想を示します。

フリードリッヒ2世は、大変な読書家でした。お城を複数持っており、どのお城にも同じ本が置いていたとか。

一箇所で読んだ本の続編を即、次のお城でも読めるようにとの配慮だったそうです。寸暇を惜しまず読書に励んでおられたようです。サンスーシ宮殿の中に図書館がございますが、そこにも三千冊の本が置いてあります。殆どの本は、フランス語で書かれた本らしい。

そして、フランスの大思想家ヴォルテェーアも泊まった・フリードリッヒ大王のサンスーシ宮殿の中に、ヴォルテェーアの部屋を作っていました。

その当時、公用語はここ欧州ではフランス語になっていたように、フランスが欧州の文化を一世風靡した時代。
フリードリッヒは、ドイツ語は野蛮で大っ嫌いだったとか。。本も自らフランス語で書いています。

このサンスーシのお城でのハイライトは、自らが主演として演奏したコンサート。そして大理石の間で、ヴォルテェーアを始め、文化じん、芸術家と食事を取りながら、音楽、建築、絵画、思想、宇宙の話と、ディスカッションは止まるところを知らず、続いたのです。

フリードリッヒ大王のギャラリーには、フランスオランダの絵画が掛けてあります。

文化をこよなく愛し、自らもフルートを演奏し、作曲もしていたフリードリッヒにこんなエピソードがございます。

一節を作曲し、それをライプチヒから駆けつけてきたバッハに託し、バッハは、その後音楽の捧げ物という大作に仕上げています。

フリードリッヒ大王のチェンバロの伴奏者、並びにプロイセン国の音楽監督の任についていた、エマヌエルバッハは、ヨハンセバスチャンバッハの次男。JSバッハは、とある日、息子のエマヌエルをベルリンに訪ねたときのことでした。

また、大王は拷問を廃止して、教育改革、社会制度の改革を測ったことも有名です。

生前にテスタメントを書き、当時王様の葬送更新は通常であった、大きな飾り立てた棺で市中を行進するのではなく、サンスーシ宮殿の一隅に、愛犬の横に墓を掘り、そこに入棺するということを願いました。

 

さて、果たしてフリードリッヒ大王、この自らが望んだお墓に1789年8月亡くなった後、入ることができたのでしょうか?多さまなんだから、なんでも願いは叶えてもらえていたんだろう。。と思いきや、、。

子供のいなかったフリードリッヒの跡取りは、甥が取ったのですが、彼は啓蒙思想を理解できず、近くの教会に彼の棺を置き、その後は、ずっとそのままに、、。

最終的にこのお墓に落ち着いたのが、ベルリンの壁が崩壊した後、200年後にこのお墓に眠ることができたのです。

王様といえども、自らの宿命に打ち勝つことができなかった。。大変示唆に富むお話ですね。

猛暑が続いておりますが、どうか健康に留意されまして、夏を謳歌されてくださいませ。

本日も最後までお読みいただき誠にありがとうございました。

SEE YOU SOON💙

Best regards from Berlin
ありがとうございました!
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